No.4-1
古墳の脇には、「宅子
(やかこ)之 里」と冠された小さな祠と、
解説文が書かれた石板が設置されています。
No.4-2
ここには、こんなことが書いてありました。
興味がある人だけ、読んでちょ。
鳴 塚
この塚は、昔から「天皇の御譲位がある度
に塚が鳴る」ということから「鳴塚」と言い
伝えられてきた、全長三十七米の前方後円墳
である。
鳴塚は、この地方を開拓し、教化・統治に
いがのうねめやかこ
力を尽くした豪族で、伊賀
采女宅子 を生んだ
山田郡司の墓であるとか、天智天皇崩御の際
故郷に帰り住んだと伝えられる宅子の陵墓で
あるとかいわれている。
又一説には、壬申の乱になくなられた大友
皇子の陵墓であるとも語り伝えられている。
以前、この地に「鳴塚社」が鎮座していた
毎年三月二十八日、采女宅子をしのんで祭礼
が行われた。宅子は、美ぼうの上に才えんの
姫で、年中緑色の御召物だったことから、里
人は宅子をしのび宅子のあやかりたいと、お
宮で作った椿餅(椿の葉で包んだ餅)をこぞ
って頂いて帰った。
更に、弘文天皇(大友皇子)の命日にあた
る七月二十三日にも、にぎやかな夏祭りが行
われた。
明治中期に社が合祀されるまで続いたこれ
らの祭りは、鳴塚と里人の、史実を超えた強
い心のきずなを物語るものとして、忘れては
ならないことであろう。
また、鳳凰寺には、弘文天皇、伊賀采女宅
子にまつわる地名等が多く残されている。
今後の古代を探る手掛かりとなるであろう。
昭和六十一年……
《この部分、撮影忘れた (^^; 》
それにしても、いろんなところにいろんな伝説があるんですね〜。
これだから古代史はおもしろい (^^)
それにしても、ほんとに大友皇子の墓なら、スッゴイな〜。